kkj 特集~環境共生と美しい日本の風景
『桜』から学ぶ
桜の頃にこそ日本人を観察すべき時である。
これその牧歌的哀歌的なる天性のもっとも明らかに現れる季節だからである。
(ケーベル先生随筆集より)
花見と桜
春、ソメイヨシノの開花と共に、日本列島にお花見の集団がそこかしこに表れます。
桜の花を愛でつつ、お弁当を食べたり、お酒を酌み交わしたり、花が咲いてから散るまでの7日から10日前後の限られた時間を味わい尽くす。大人も子供も男女も関係なく、みんなが楽しめる春の行事「お花見」は、野へ山へ、桜の名所を求めて大勢の人が野外へ繰り出す「春の風物詩」です。
ところでこの「お花見」はいったいいつ、そしてなぜ行われるようになったのでしょうか?
現在当たり前になっている「お花見」は、貴族的文化と農民的文化という異なる起源を持った文化が、融合し確立されたものです。
貴族文化で行われていた花見は、1本の『梅』を鑑賞し歌を詠むといった風流な遊びの一種でした。やがて平安中期以降になると、花見の花は『梅』から『桜』に変わり、貴族から武士へ、江戸時代に入ってからは裕福な商人層から一般庶民へと、その習慣が広がっていきました。
一方、農民文化における花見は、冬を支配していた神を山に送り帰し、春の芽吹きをもたらす田の神を迎える「春入り」「春山行き」という、稲作に深く関る宗教的な意味合いを持ったものでした。
「さくら」の咲く季節になると、飲食物を携えて近くの山に入り一日を過ごす「春入り」「春山行き」の慣習は、やはり江戸時代に農村から都市に住む町民の間へと広がって行きました。
このように異なる2つの文化が江戸時代に融合し、庶民の娯楽へと転換した理由として、 江戸幕府による「桜」の名所作りが大きく関わっていたと考えられます。
娯楽としての花見の誕生
江戸時代に「融合」した理由
江戸において桜は、自生していたというよりも、計画的に植樹されたものです。関東ローム層の林の中は桜にとってあまり良い生育条件とはいえず、当然、群生地もありませんでした。
そんな江戸の町に一番初めに桜の山が作られたのは、1620年代のこと。比叡山に見立てられた上野の山に、東叡山寛永寺が建立された際、吉野山の桜が植林されました。それから60年後、上野の桜が大きく育つとともに、その下での宴も輪を広げていったのです。
その後、綱吉の時代に入り「生類哀れみの令」が出され、田畑を荒らす野鳥獣にも保護策がとられたため、農民にとって苦しい時代になりました。吉宗の時代に入り、生類哀れみの令は廃止されましたが、今度は「鷹狩」が復活し、鷹狩りの獲物を確保しておくために、野鳥獣類の駆除が制限されました。政権が交代し、政策が変わっても農民に強いられる負担は大きかったようです。
吉宗は鷹狩用の資源確保に向けた野鳥獣保護のための象徴的な政策として「桜の植樹」を行いました。しかし、桜の植樹地を飛鳥山、向島、御殿場などの江戸周辺の農村部においたのには、農村における鷹狩りに難儀する農民への慰撫策のひとつとして、都市民を消費者として農村部へと向かわせる狙いもありました。
飛鳥山、向島、御殿場の植桜地は、吉宗の狙いどおり、江戸の桜の名所となっていきました。今も残る東京近郊の桜の名所は、その多くが時の権力者によって計画的な観光振興策として作られたものだったのです。江戸庶民が花見に向かうことは、都市部と農村部の融合でもあり、花見のために桜を計画的に植えることは人工と自然を融合させることにもなりました。
このように花見の場所が整えられ、二つの異なる起源を持つ「お花見」に、江戸の庶民が持っていた「旅好き」「宴好き」「花好き」といった性質が加わり、『娯楽』としての花見が江戸時代に確立されていったのです。
風景は共有の財産
『美しさ』を共有する作法
江戸時代に確立されたお花見は、今でも私たちの生活の中にしっかりと息づいています。
しかし、お花見で桜が一番良く見える場所をとるために他の人を排除したり、 美しい風景を楽しみに行ったのに、ごみを捨てて帰ったり、心無い行為や利己的な考え方が、みんなが楽しみにしてる場所で特に多くみられるのは、本当に悲しいことです。
風景は共有の財産である、という作法を、今日の私たちは忘れがちです。
美しく咲く桜の季節を楽しみにしているのは、自分ひとりではありません。
美しい景色は誰のものでもあり、誰のものでもない、みんなの共有する財産なのです。
参考資料:参考資料:「花見と桜-日本的なるもの再考」白幡洋三郎著
環境共生のまちづくり